コンタクト

2002年11月1日
痴呆症のおばあちゃん。

体が動かせず、コミュニケーションが取れない植物状態だけど、意識のあるおじいちゃん。

山で迷った男の子と女の子。

銀行の貸付を断られて、資金繰りが出来なくて、資金集めに奔走するレストランオーナー。

乱交して妊娠した女子高生が、お腹の子の父親を探す。

銀行襲撃に成功した、犯人グループがボス指定した場所に着いたら、指示された物が無い。

…煮詰めるか。

雪の降る街

2002年10月31日
空から、白い追憶が降りて来る。
雪が、あの頃の想い出を連れて、今年も降り始めた。

足早に帰る人波の中で、私は足を止め、しばらく舞い降りる雪を眺めた。
一昨年の、丁度こんな雪の日に、彼と別れた。
別れた理由は私にある。

彼から預かっていた、ブルーボタンインコを逃がしてしまった上に、その時、サブの彼氏候補の男と逢っていたのだ。
私の、責任転化をする悪い癖が出た上に、弁解と開き直りで、事態は最悪の方へと転がった。
「俺は、お前と一緒にいても、幸せになれる気がしない」
決定的な言葉を投げつけられ、私は返す言葉が無かった。
結果、私というゲージから、彼は飛び立った。
その時の私には、青い鳥が逃げた事が切っ掛けとなった事に、まだ笑える余裕があった。
・・・いや、そんな時ですら、その場にいない第三者の眼を意識して、強がっていたのかもしれない。

◆秘密日記◆
10月30日(水)の午後9時から『ザ!世界仰天ニュース』というのが放送された。

テレビを点けたら、今回のゲストだったと思われるマリックが、何か奇跡を起こす所らしい。

「偶然が重なると奇跡になる」

こう言って始めた手品は、簡単に言うと以下の通りである。

1円、5円、10円、50円、100円、500円
の6枚のコインの内、マリックが予想したコインをゲストの一人(高木美保だったかな?)に握らせて、作業が終わるまで、そのままカメラの前に握ったこぶしを映しておく。

もう一人(スマップ中居)は、コインを透明のコップの中に入れたら、適当に振った後、テーブルの上に全て出す。
数字の書いてある面が出たコインのみ、コップに戻して、最後の一枚になるまで繰り返す。
最後に残ったコイン(500円)と、ゲストが開いた手の中にあるコインが同じという手品だ。

コップの振り手を鶴瓶に変わって、もう一度行なっても当たった。
2回目は10円だった。

随分、バカにした手品だと思ったが、テレビの中では歓声があがっている。
ADが台本をでも振り回して、煽っているのかと思った。

トリックはこうだ。

◆秘密日記◆

バカにしたといえば、どこぞの教祖はアグラをかいてジャンプした一瞬の写真を見せて、空中浮遊が出来ると言っていたらしい。

信者が言うには、ジャンプにしては高い過ぎるそうだ。
そう言われて見なおすと、確かにジャンプにしては高いかも知れない。

ただ、高い所からアグラのまま落ちる一瞬を撮った物として見ると、逆立った髪、次に襲うケツへの衝撃を耐える為に、歯を食いしばっている顔に見えて面白い。

一般人は笑っても、信者が信じたのなら、ケツの痛みは無駄にはならなかった訳だ。

塀の中の教祖と、サイババの違いは、自己の利益に走ったかの違いだ。
サイババと、マリックの違いは、宗教に使ったか、エンターテインメントに使ったかの違いだ。

けれども、マリックの手品を見て歓声を上げた人と、信者に違いは無い。
幸運にも、マリックが利己的な教祖で無かっただけである。

そう考えると、信者を一方的に責められないのではないかと思うのだが、信者を責める人は、歓声を上げるタイプの人が多い。

目くそ鼻くそを笑う。

宗教信者が、別の宗教を否定するのも同じ事だ。

私は、盆暮れ正月に線香をあげて、クリスマスにケーキを食べる無宗教ですが、どこの宗教にも入るつもりは無いので、これを読んで、勧誘をしようと思った人がいたとしても、無駄ですので止めてください(笑)

涙の理由

2002年10月29日
涙が流れる理由は、眼が乾かない為と、眼に付いたゴミを洗い流す事である。
他にも、悲しい出来事があった時にも涙は流れる。

失恋した時には、失恋の歌を聞く方がイイ。
その方が、立ち直りが早くなると聞いた。

悲しいのに、悲しくないフリをすると、余計に尾を引く。
悲しい歌を聞いて、枯れるまで涙を流せば、スッキリするというのは、実体験からも肯ける事のように思える。

涙には、心に残った失恋のゴミも、洗い流す効果がある。

ロマンチスト

2002年10月28日
男と女の、どちらがロマンチストなのかという話しは意味が無い。
なぜなら、どちらもロマンチストだからだ。

ただ、恋人でない異性の友達が、ロマンティックな発言や行動をした時に、否定的な態度をとるのは女性である。
北斗の拳という漫画を知っているだろうか?
あたたたたー!
というアレである。

かなり長い間、週刊少年ジャンプで連載されていた漫画だが、作者は後半の話しになると、良く覚えていないそうだ。

作者が書きたかったのは、主人公とラオウの対決までで、その後の話しは、出版社の都合で続けさせられた話しだからだ。

他人から、書かされた話しには思い入れの無い分、忘れるのも早いという事だろう。

自分で書いている物の内容は、忘れたくないものだ。

・・・うーむ、日記の始めに書いたのは何だっけ?

というのは冗談である。
ちゃんと覚えている事にホッとする。
失恋した時に「本当の愛だと思ってた」と誰もが思う。

相手を欲しいと思い、自分の欲求をぶつけるのは愛ではない。
子供が、オモチャ売り場で、わがままを撒き散らしている姿と同じである。
相手の気持ちや立場、相手の相手の身になって、色々な事を考えられない内は、愛だと勘違いしている恋に過ぎない。
何れ、相手から恋の幕引きをされるでしょう。

けれど、それは幸せな事です。

相手から、大人になる事を促がされた訳ですから。
「失恋」は自分の中に残っている「恋」を「失」って愛を手に入れるチャンスです。

壊れたオモチャに、いつまでもしがみつくのは止めましょう。
恋人が戻ってきて、また二人で遊んでも、壊れたオモチャは歪な動きしかしません。
壊れるかもしれないと、ハラハラしながら遊んでも疲れるだけです。
それ以上に、貴方がいつまでも成長しません。

本当の愛だと思い込むのが恋であったならば、本当の愛を見つける為に、失った恋の未練は、胸にしまいましょう。

人間見た目

2002年10月25日
整形と人間性。
アイドルと整形。
ナンパと恋人。
結論へ。


何のヒネリもないなぁ。
保留にして、別の話しを考えるか。

死の原因

2002年10月24日
古い友人、Bに刺されてAが死んだ。
連絡が早ければ、一命を取りとめたかもしれなかった。

二人共、学生時代は苛められっ子同士だったけれど、
Aの勇気付けによって、Bは暴力的に生まれ変わった。
二人は仲良くなり、苛められる側から苛める側に回った。

大人になり、不景気からAに金を借りたBは、Aの取立てに逆上して刺した。

以下◆秘密日記◆

味覚

2002年10月23日
「あなたの作ったものは、私の味覚に合わない」

仲直りの意味も含めて、作った物を否定されてしまった。

甘党の僕が、彼女の味覚を考え、彼女の嗜好に合わせて作ったのだが、彼女の言葉を借りるならば「その考え方自体が私と合わない」らしい。
彼女は、他人に媚びて作られた物は、敬遠する傾向にある。

僕から見れば、逆に辛党の彼女が作る物は、何処か他人を寄せ付けない感じがする。
他人が賞味する以上、作った物の味を調える必要はあると思うのだが。
彼女に、彼女が作った物を賞味した周りの反応を聞くと「半々」と答える。

そうなのだ。
他人に歩み寄る事無く、自分の味覚のみを信じて作られた彼女の物は、素材によっては絶妙の味を生み出す。

付き合い初めの頃、お互いの味覚を譲らなくて、あれこれ言い合った頃もあったが、生まれてから今まで築き上げた味覚が、簡単に変わる筈も無かった。

お互いの共通点を、未だに模索中である。

「これじゃお金は取れないよ」
彼女の物を賞味した後に、僕は必ず苦笑いをしながら言うのだが、彼女の答えも必ず決まっている。
「自分が良いと思えない物は作れない。お金が貰えるなら別だけど」そういって微笑む。

彼女は、味を調える事を媚びているというが、僕はそうは思わない。

「赤」と言った時に、自分が意図した色を伝える為に、必要な説明するのが味を調える行為であって、それは媚びる事とは別な筈だ。
言葉が足りなくて、自分の意図した「赤」が伝わらないまま「ピンクに近い赤」や「ワインレッド」で賛辞を受ける事の方を僕は避けたい。

どちらにせよ、お互いの価値観が違う以上、二人とも、過度の歩み寄りは出来ないのは判っている。
お互いの、持ち味を生かした物を作るしかないのだ。

「お腹空いた。何か食べに行こうよ」
彼女の言葉で、空腹だと気付く。

現実の二人は逆だ。
僕が辛党で、彼女は甘党だ。
二人とも料理は出来ない。

お互い食事の味覚と、文学の嗜好、執筆作品の味付けが逆である事に、どこか変な気もするが、人間は無意識の内に、バランスを取るものなのかもしれない。

そうでないと、価値観の違う二人が、一緒に居続ける事が出来るとは思えない。
お互いに、生きていく上で相手が必要なのだ。

「駅前の定食屋に行くか」
「そうだね、私もそう思ってた。歩いて行こっか」
「俺もそう思っていたよ」
お互い、自然と笑みがこぼれる。

どうやら、僕が書いた作品は不評でも、彼女と仲直りはできたみたいだ。

定食屋へ向かう道で、二人は自然と手を繋いで歩いていた。

「手を繋いで歩きたい」と思うのは、味覚、嗜好、価値観の違う二人の、数少ない共通点だ。

僕は、この事を大切にしたいと思った。

作家の良心とは

2002年10月22日
売れれば良いのか?

無料で公開する、日記も含めたテキストサイトとは違うのに、稚拙な文章で金を取る。
稚拙さを、作品性に使った文章でもないのに。

自分の作った作品が、他人から金を貰えれる文章に値するかは、作った本人が一番良く分かっているはず。

あなたに、私の拙く短い作品を送ります。

あのね、てんごくにおかねは、もっていけないんだよ。

雨に痛む古傷

2002年10月21日
雨に痛む古傷をテーマに、過去の出来事を書こうかと思ったけれど、書く前にあまり面白くない事に気付いたので取り止め。

途中まで書いていたら、そのまま途中までだけでもアップしていたかも。

明日は、別の話を考えるか・・・。

飛べない鳥

2002年10月20日
今日もニワトリが鳴いている。

養鶏所の中で、大勢の仲間に囲まれて鳴いている。

世間話でもしているのだろうか。
誰かに、自分の思いを伝えようと、鳴いているのだろうか。
明日を生きる為に、鳴く事でストレスを解消させているのだろうか。

「鳴いて」いるのだろうか、「泣いて」いるのだろうか。

大勢の仲間に囲まれて、過ごせるのは幸せな事だと思う。
毎日、卵を産む代価として与えられた安全なゲージの中で、大勢の仲間に囲まれて、与えられた餌を食べ、気ままに鳴いて眠りにつく。

自分が飛べない理由は、ゲージがあるからだろうか?
大勢の仲間に囲まれる事による「しがらみ」と言う名の鎖が有るからだろうか。

一見、幸せに感じ、いつでも切れるような繋がりなのに、切ろうとすると信じられない強さを持つ鎖。
そのくせ、頼りにしたい時には、初めから繋がっていなかった顔をする。

けれども、本当に飛べない理由は、自分が飛べない理由を、自分以外の他の何かにあるのだと、常に言い訳をしている「己」にあるのだ。

今日もニワトリが鳴いている。

「だいありぃのーと」という名の、養鶏場の中で、大勢の仲間に囲まれて鳴いている。

世間話でもしているのだろうか。
誰かに、自分の思いを伝えようと、鳴いているのだろうか。
明日を生きる為に、鳴く事でストレスを解消させているのだろうか。

「鳴いて」いるのだろうか、「泣いて」いるのだろうか。

その答えは僕にもわからない。

なぜなら僕もまた、養鶏場で日記の卵を産みながら「ないて」いる、一羽のニワトリに過ぎないのだから。
振り返れば、感謝し切れない程の愛情を受けている筈なのに、あなたに感謝をするという事を、しばらくしていないような気がする。

愛する人に対して、言わなくても分かってる筈と、自分で勝手に思い込んでいる言葉でも、たまには声に出して伝えてみようと思う。

きっと人生なんて、そんな些細な事で、結構、幸せになれたりする。

人は、見えないゴールに向かって、泳ぎ続けるスイマーのようなものだ。

一緒に泳いでいる人が、自分のスピードに付いて来てきても、大丈夫だとは限らない。

平気な顔をしているように見えて、自分に心配をかけまいと、溺れるギリギリで頑張ってくれているのかもしれない。

産まれた時も死ぬ時も、人間は独りで泳いでいるのかもしれないけれど、・・・だけど僕は、ずっとあなたと一緒に泳いでいたいんだ。

あなたが隣にいてくれるなら、独りで泳ぎ続けるには、少し長くて退屈な人生も、素晴らしい物になるという確信が、僕にはあるんだ。

恋の達人は愛の素人

2002年10月18日
次々と、相手を変えていく、恋の達人と言われる人がいる。

数をこなしているから、ノウハウも分かっているのだろう。


ん〜、昨日や一昨日よりかは、ソコソコましかな?

本文を書かなくても、内容の予想がつくのが難点か。

明日は、また別な話を考えよう。
インドへ、旅行へ行った日本人が帰国後に、自殺を考える人が思っていたよりも多い事に驚く。

インドで、過ごした生活のスピードに慣れてしまって、日本の生活スピードに戻れなくなる事が原因のようだ。


インド人の握った寿司と、日本人が作ったカレーに置き換えて、展開しようと思ったが、これも面白くないかな。

明日は、また別の話しを考えてみよう。

売春は是か?否か?

2002年10月16日
聖職者と言われる人物が、性犯罪を犯す事に対する驚きが薄れている世の中では、売春をする女の子に対しても、世間の関心は薄いように感じる。

売春は是か?否か?

街頭で、テレビインタビューを受ける親子が、答える返答は必ず否だ。
当たり前だ。
親でも子でも、身内を目の前にして、売春を認める発言をする事は無いだろう。

しかし、売春を否定した人に、否定の理由を尋ねても、歯切れの悪い返答しか返ってこない。

逆に、売春肯定派の弁は立つ。
ギブ・アンド・テイク。
需要と供給。
資本主義、拝金主義の時代に生きる子供として、当然の反応なのかもしれない。

売春は、原始商売だと言われている。

戦争後やロシアの崩壊、日本では有名大学を卒業した女性が、就職難で風俗に就職する場合もあるという話を聞くと、人類史上初めての商売だとしても、不思議ではないと思う。

ここまで読むと、私は売春肯定派なのだと、思う人もいるかもしれないが、私は売春否定派の立場を取っている。

同じ立場を、取っている人の意見を聞いてみると「魂が汚れる」という、説明になっているのか、なっていないのか、良く解からない曖昧な言葉を使って説明している人も、中にはいるようだ。

そうかと思うと、その説明で大きくうなずいている人もいる。
私には「良く解かった!納得した!」と言う人の方が良く解からないし、納得できない。

売春をした事がない男女でも、自分が純粋で無くなったと感じたり、汚れてしまっていると考える事は無いだろうか?

私にはあります。

今まで女性を買う事も無く、普通の生活を送っていながらも、魂が汚れた私はいけないのでしょうか?

他人と関わりを持って生きている以上、不本意ながら打算的だったり、保守的な行動は取ってしまった事はあるし、これからも意識、無意識の両方で、後から後悔する行動を取ってしまう事はあると思う。

他人から見たら、気にするような事ではなくてもである。


・・・と、ここまで書いて、あまり面白い話しでもないかな?と思う。

次に書く時は、続きを書こうか、別の話を書こうか迷い中。

幸せのアンテナ

2002年10月15日
今日、窓の外をぼんやり眺めていると、向かいの塀の上を猫の親子達が、のんびりと歩いているのが見えた。
幸せそうな様子に、思わず笑みがこぼれたが、あの猫達は、本当に幸せなのだろうか?という事を疑問に思った。

それ以前に人間は、どんな時に幸せと感じるのだろうか?という事の方に興味を持った。
人間にとって、幸せを感じるのはどんな時か。
色々考えてみるが、ナカナカ難しい。
それは、ビル・ゲイツにとっての1万円と、私にとっての1万円の重みが、同じ1万円でない事と同じ様に、人それぞれ、幸せを感じるアンテナが違うからだ。

全ての人が、解かり易い例えは無いものかと考え、空気の存在に気付く。
人は呼吸をして生きている。
普段は呼吸が出来る事の、ありがたみや幸せを感じる事は、まず無いだろう。
何気なく吸っている空気も、大勢の人が居る会場などの、空気が薄くなった場所から一歩外に出た時に吸った時は、普段と感じ方が全然違う。
多くの人が美味い!と思う筈だ。
結果、普段よりも強制的ではあるが、空気を吸っている事の幸せを感じるアンテナの感度が、良くなっていたという事になるのではないだろうか。

空気が無い事を想像しても、漠然と「苦しそうだ」としか思わないけれど、自ら体験すれば、本当のありがたみが解かる筈だ。

空気といえば、恋人がいる人に相手の事を尋ねると「もう、お互いに空気みたいな存在」と答える人がいる。
ドキドキしないし、幸せじゃないと続く場合も多い。

でも貴方は今、とても幸せなんですよ。

空気みたいな存在と言う貴方の恋人が、傍にいてくれる事の幸せを感じられないのなら、少しだけ想像してみると良いでしょう。
苦しくて耐えられないのなら、もっと相手の事を大事にして、思いやりを忘れないようにするべきです。
平気だと思ったら、別れるのが一番です。

平気だと思って別れて、相手を失ってから、本当の価値に気付いた時に、もう一度その愛を取り戻したくても、死んでしまった愛情が蘇生する保証はしません。

ただ、相手も同じ気持ちじゃないと、やはり長続きはしないですけどね。

それは別としても、幸せを感じるアンテナは、常に感度が鈍らない様に、磨いておかないといけないと言う事です。

夕方、コンビニへ向かう道の途中、鈴虫が鳴いていて、風の中に秋の匂いがした。
なぜだか解からないけど、幸せな気持ちになった。
自分のアンテナに、そういう事を幸せと感じられる要素があった事に、軽い驚きを感じながら店へと急いだ。
少し冷たい風も、気にはならなかった。
『世界がもし100人の村だったら』という本を読んだ。
すぐ読める薄い本だが、ベストセラーらしい。
感動!癒し!の宣伝ポップが立てられていた。
幸せを実感できる良い話しだそうだ。

読後、どの辺りで感動して、どの辺りに癒され、何処で幸せを実感できるというのか見当もつかない。

この本の言いたい事は「世界には、大勢の恵まれない人がいて、貴方の生活は、その人達より上だから幸せである」という事に集約される。

ベストセラーと言うのだから「その人達の為に、自分が出来る事を探しましょう」と締めくくる内容だと思っていたから驚いた。

自分よりも下が居れば幸せ。
士農工商?
えた、ひにん?
そういう考えの人がいても、別に文句は無いが、感動!癒し!良い話しと言われる事には疑問を感じる。

私にも「他人より自分が一番」と考えてしまう時が有る事は否定しないが、この本を読んで「感動した!読んでみて!」と薦める人は、自分の中の卑しい部分に気付いていないのだろう。

こういう内容の本が、ベストセラーだという事に驚きと疑問が沸いたが、自分の周りを振り返ってみて気が付いた。
何か話をした時の返答が「○○はまだマシだよ。私の場合なんて・・・」という受け答えをする人が結構多い。
相手を持ち上げて、自分の方が恵まれていないから、不幸だと言いたいのだろう。
という事は、自分よりも不幸な下が存在すれば、幸せを感じる事が出来るという事になる。

・・・なるほど。
確かに買う人はいるようだ。

『世界がもし100人の村だったら』が、なぜ売れるのかという理由は解かったけれども、この本がベストセラーだという事実は、程度の差はあれ、日本における他人を妬む人の多さを表している事になるのではないだろうか。

士農工商で農民は、工業、商業よりも上だと思い満足し、商業はえた、ひにんよりも上だと思い満足した。

あの頃から、国民の意識というのは変わっていないのだ。

他人と自分を比べて、満足ですか?
他人の目が無いと、幸せを感じられませんか?

「自分が幸せじゃないと、他人を幸せになんて出来ない」という意見は、妬み人間の開き直り言葉に過ぎないと、私は思っています。

世界で一番不幸な人とは、この本を読んで幸せだと感じれた、貧しい心の持ち主だろう。

人を妬むというのは、人間にとって自然の感情なのかもしれない。
ただ、その感情を自分のやる気に変えるか、妬んだまま、そのままくすぶるかの小さな違いで、その後は大きく変わる。

その事に、早く気付くと良いのに。と漠然と考えながら、今日は筆を置きます。
深夜に、気まぐれでこのサイトを知って、さして書きたい物の見通しも無いまま、日々思った事を書き始めてみようと思った。

「まえがき」と、タイトルに入れてみてから、何を書こうかと思いを巡らせたのだが、「日記」が人生の記録とするならば、永遠に「あとがき」を書き込む事は無い。

仮の終わりは何度も出来るのだが、自分が死んだ後に「あとがき」を、自ら書ける人は居ないであろう。

死ぬ前に書く「前書き」の蓄積が「日記」という物なんだと思ったのだが、よくよく考えてみると、その日あった出来事、もしくは産まれてから現在までに体験した経験や、それに基づいた考えから生まれた物語や、思想の書きこみが「日記」なのだという事にも気付く。

つまり、自分が産まれてから現在までの「後書き」を、死ぬ前の「まえがき」として書いているという行為が「日記」という事になる。

そう思うと「日記」の始めに書く「まえがき」という物は「後書き」であって、書きこむ「後書き」は「まえがき」になるのだと思いながら、この事を「まえがき」にすれば良いのかなと書き記す。

歴史に名を残す偉人は、大勢の他人が頼んでもいないのに、色々な形で「あとがき」を記している。

たった一人でも良いから、自分が生きていたと言う「あとがき」を伝える存在を、作れるような人間になりたいものだ。

そんな恋人が見つかって、二人の間に子供が産まれ、ささやかな家庭を持てたら、これ以上の幸せは・・・、多分、無いのだろう。

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